コロナ禍の心にしみる ありがたい法話集 愛知県第一宗務所 編
当たり前の中に
普蔵寺副住職 川浦良允
家族との時問、仲間との時間、仕事をする時間…
それまでは何気なく過ごしていた時間も、いざ思い通りにいかなくなると急に、不安や切なさを感じます。
いつもなら当たり前に出来ていたことが突然できなくなり、寂しさを感じた方も多いのではないでしょうか。
僧侶である私自身も、このコロナ禍で不安を感じた一人です。感染者が増えるにつれ、お月参りができなくなったり、
お檀家さんやご親戚とお会いできるはずの法事が中止になったりと、お檀家さんにお会いする機会が激減しました。
当たり前のようにお檀家さんとお経を読み、共に手を合わせる時間が奪われ、自分白身の僧侶としての存在意義に自信が持てなくなるような不安を感じたのです。
「○○おばあちゃん、一人暮らし元気にしているかな~。」と心配しながらも、実はお檀家さんの皆さんに会えず、元気を失っていた自分がいました。
何ともお恥ずかしい話です。
しかしそれは同時に、私にとって大事な事に気づく何よりのきっかけとなりました。
当たり前のように私か僧侶してお経を読む以前に私を僧侶として認め、仏前に立つことを受け入れてくれるお檀家さんがいること、
それがどれだけ尊く有り難いことなのか痛感しました。当たり前のようにお檀家さんがいつも何気なくニコニコと私を迎えてくれる。
それではじめて私は僧侶としてお経を読むことができるのだと考えると、ただ不安だった心も少しずつ安らぎ、大きな有難みを感じるようになりました。
「次にお会いしたらどんなお話をしようか」、「今できることはないだろうか」と前向きに考え改めることができました。
人間誰しも不安やストレスを抱えると、ついつい「○○のせいで」と囗走りたくなります。しかし有事の状況下だからこそ、
いつも当たり前に過ごしてきた中にある「有難み」の存在に気づくことができます。
この「有難み」に気づくことが、この有事の中で心を前向きに改めるきっかけになるのではないでしょうか。
合掌